夏休みの課題-ECCE HOMO

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夏休みの課題と言えば、自由研究や読書感想文などというものが一般的だろうか。

そんな課題で毎年やらされていた、読書感想文で思い出すことがある。

中学二年位だったろうか。

その年しぶしぶ書いた夏休みの読書感想文が、何故か国語教師(「ハムレット」の

ブログに出て来た教師と同一人物である)の目にとまり、昼休みの「放送」で、読ま

れることになった。

市の何かに選ばれたからという理由だったように記憶している。

嫌で嫌で、本当にその日が来た時は、給食を食べずに逃げようかと思ったが、どうせ

皆ろくに聞いたりしないだろうと高をくくって、開き直った。

その中身はどこかにやってしまったが、とりあげた「ECCE HOMO」は写真集で、

また、記録の物語でもあって、分厚く重く、ずっしりと響くものであった。

手元にないので、うろおぼえで書く。

アウシュビッツ始め、ナチスドイツの「遺産」の数々が、写真と結構細かい説明文と

ともにそこにある。

印象に残った中に、なにやら細かい物が大量に映った写真があった。

何かなとよく見てみると、全て眼鏡なのである。

数にして万以上、もっとだろうか。

中には貴重な金属でつくられた眼鏡もあったのか、とにかく全て没収されて

そこに無造作に積み重なっていた、それを写したものである。

そうするとこれは、リアルタイムで、まだ戦時中に写したものなのだろうか。

その眼鏡の持ち主たちがどうなったのか、、、読んでいた私は何も言えなくなる

ような心持になった。

収容後時が経ったのか、一体食事を殆ど取らずに、人間はどれだけ生きられる

のかという実験でもされたかのような容貌…顔でいうと、目だけが大きくぎらぎら

としていて、しかしその目には表情は宿らず、顔からも喜怒哀楽を感じ取れない

ようなひとが写されていた。

そのひとを見てまた茫然とする。

人種差別などという言葉だけでは表せないだろうし、ナチスは残虐極まりなかった、

などという短絡的な表現もここでは無意味だろう。

収容されたどこかの国のひとが、奇跡的に命をとりとめて終戦を迎えた後、こんな

ことを言っていたそうだ。

「わたしたちのだれもがナチスたりえたのです…」

安易に想像もつかないような日々を何日も、何年も耐えたひとのものだから、その

重さに胸がつまるようだ。

少し経ってから、フランクルの、「夜と霧」も読んだ。

読んだ当時にも難解で分からない部分も多々あったが、印象に残っている個所も

ある。

解放されたひとびとの、反応である。

そこには解放された喜びのかけらもなかったと書かれていた。

その中の一人が言う。

「夕日を見てああ、美しいなと思えるようになるまで、私には何年もの時間が

必要だったのです…」

手元には今無いが、所持してはいるので、この優れた本についても書きたいと思う。

「ECCE HOMO」に話を戻すと、この言葉は、このひとを見よ、という、ヨハネによる

福音書からのもので、キリストの受難を描いた場面で出てくるそうだ。

ピラト(ユダヤ人)がキリストの荊の冠の刑や拷問を嘲笑するのを題材にしている。

このひとを見よ、という題名を常に意識しながら、この本を読んだあの夏、あれは

自分にとって、ひとつの転機だったかもしれない。

人間という生き物の「可能性」が良い方向にだけ向かう訳では決してないことや、

綿々と続く歴史の中での人類の賞賛すべき行為の陰に、数々の、悲惨な現実

などを、痛切に「実感」するようになったからだ。

 

画像は、天才的なルネッサンス期の画家、カラヴァッジオによる「ECCE HOMO」である。

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